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大人の論点、子どもの感覚

今日も長崎の事件のことを少し書く。

今朝のTVで「パソコン・チャット」を小学生が使うということについて、なにやら議論していた。文字だけのコミュニケーションのパソコンやチャットが良くない、そう言わんばかりだった。

大人の論点。
物が悪いの、何が悪いの、そういう話が大好きなのは大人だけではないのか。自分の幼少の頃のかすかな記憶をたどると、もっと感覚で生活していたような気がする。感情に任せて、日常を過ごしていたように思う。

その感覚、感情の中で最も重要なのは、友達という存在だった。親に、友達のことを悪く言われて、家出をしたくなったこともある。それほど、友達は大切だった。それが例え、一緒にトイレに行く仲間でも。

親に言えないというより、言いたくないことがたくさんあった。でも、友達にならなんでも言えた。子どもには、子どもの世界があった。大人は壁の向こう側にいるような、そんな感覚もあった。私はそうだった。そう考えれば、なにも今の子どもたちが特別な感覚を持っているわけではないと思う。

ただ、殺人を犯してしまったという事実がある以上、何かが違うことは確かだ。その違うことが、パソコンだのチャットだのという大人の論点はおかしい。大人になってしまった今、子どもの世界に入ることは困難だし、子どもの頃の感覚にたちかえるのも難しい。しかしながら、放っておくわけにはいかない。なぜなら、これは立派な殺人事件だからだ。

大切なのは、異なる時代を生きている異なる子どもたちの感覚を、より詳細に検証、分析し、少しでもそれらを把握することではないか。原因は、コミュニケーションツールではなく、コミュニケーションそのものではないだろうか。

これもまた、大人の論点かもしれないと思うと切ない。

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by neko_tin_neko_tin | 2004-06-03 09:32 | 社会
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